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相楽東部広域連合

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和束町史編さんだより(第23回から)

[2024年6月4日]

ID:1382

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和束町史編さんだより第1回から第11回はこちら

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和束町史編さんだより第12回から第22回はこちら

和束町史編さんだより(第12回から) | 相楽東部広域連合 (sourakutoubu.lg.jp)

第24回 三宅先生の墓碑

 南の正法寺の墓地のほぼ中央に、「三宅南峯先生之墓」と刻まれた石碑が建っています。裏面には、風化して読みづらくなっていますが、「大正二年十一月三十日逝去」や「門下生建之」などの文字が刻まれています。

 三宅南峯先生とは、1873年(明治6年)5月に開校した、和束最初の小学校釜塚小学校の読み書きの教師「三宅穟一郎(すいいちろう)」のことです。

 三宅は、1840年(天保11年)に京都に生まれ、維新の混乱を避けて南に移住し、勧文堂という寺子屋を開いて読み書きを教えていました。1873年(明治6年)に釜塚小学校が開設されると同時に漢文や習字の教師となり、釜塚校が中和束小学校と改称した後も教師を続け、1904年(明治37年)まで30年以上の長期にわたり勤務しました。

 晩年は京都に帰り、1913年(大正2年)11月30日に亡くなります。墓碑は、和束での門下生たちが、1922年(大正11年)に建立したものです。和束の初期の小学校教育を担った三宅先生が、教え子たちに慕われていたことがよくわかります。

三宅南峯先生墓碑

第23回 和束の砥石

 『日本山海名産図会』という寛政11年(1799)に出版された日本各地の産物を解説した本があります。その本に砥石が採取される場所として、和束の杣田、南村、門前、中村、湯船も登場しています。和束町史編さん室で、これまで調査した古文書約1万5千点の内、砥石が登場する古文書は40点ほどしかなく、実際に残っている史料は少ないですが、和束の砥石についてわかったことを紹介します。

 砥石に関する古文書には原山や白栖も登場し、『日本山海名産図会』に登場しない地域でも砥石が採られていたことがわかります。なお、編さん室が調査した古文書で砥石が登場するのは、ほとんどが杣田と原山のものですが、これは杣田と原山から古文書が多く発見されているからで、門前など他の地域でも古文書が多く発見されれば、他地域の砥石のこともわかってくるかもしれません。

 杣田・白栖・湯船の史料から江戸時代に砥石運上を納めていたことがわかります。これは、砥石を採ることに対する税を納めていたということです。他の地域でも砥石が採れるところは砥石運上を納めていたと考えられます。

 原山の史料は、ほとんどが砥石を採ることに関する江戸時代の契約書です。その契約相手には大坂の商人もいます。大坂の商人も和束の砥石を採りたがっていたということがわかります。

 和束の砥石に関する歴史的なことは、あまりわかっていませんが、江戸時代から採られていたことは確かです。さらなる史料の発見が期待されます。                                   

享和3年(1803)「砥石山年季一札」(個人蔵)
原山村と大坂の商人が砥石の試堀について契約している