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相楽東部広域連合

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和束町史編さんだより

[2023年1月5日]

ID:1249

第7回 和束町誕生

 第2次世界大戦後、地方自治体の役割が増大したため、財政的な問題などから市町村合併の必要性が日本各地で議論されるようになります。和束郷4ヶ村においても1951年(昭和26年)の段階で合併の話があったようですが、実現はしませんでした。

 1953年(昭和28年)8月14日の晩から15日未明にかけての集中豪雨によって南山城水害が発生します。和束川の氾濫によって和束郷4ヶ村は大きな被害を受け、死亡者は58人、行方不明者は53人にのぼり、そのほとんどは中和束村の住民の方たちでした。

 この年の9月1日、町村合併促進法が公布、10月1日から施行されます。各村単独での水害からの復興が難しいことから和束郷4ヶ村は、この法律に基づいて合併を進めていきます。しかし、湯船村の広大な村有林を合併後にどう扱うかの話し合いがまとまらず、1954年(昭和29年)12月15日西和束村・中和束村・東和束村の3ヶ村が合併して和束町が誕生します。

 その後、湯船村有林は合併後も湯船財産区有林とすることで話し合いがまとまり、1956年(昭和31年)9月30日湯船村も合併して、現在の和束町が誕生したのです。

1956年(昭和31年)和束町・湯船村合併記念手ぬぐい

第6回 釜塚・石寺の人形浄瑠璃用具

 人形(にんぎょう)浄瑠璃(じょうるり)は、江戸時代後期から明治・大正にかけて、農村の娯楽として大流行しました。村人のなかには、自分たちで人形を操り浄瑠璃を語る人たちも現れました。和束町で人形浄瑠璃を演じていたのは、釜塚の巽(たつみ)座と石寺です。

 釜塚の巽座は、幕末の1864年(元治元年)に、澤樹徳兵衛や辻浅右衛門、田中清左衛門らが中心となって始めたものです。明治期には、徳島(阿波)から人形首(かしら)を購入し、原山や中、別所などで演じることもあったようですが、昭和初期には衰退しました。

 石寺の人形浄瑠璃は、明治から大正にかけて行われていたようですが、詳細はわかっていません。釜塚、石寺に残る人形首や衣装などの人形浄瑠璃用具は、京都府登録文化財になっています。また、同時期に、木津川市加茂町井平尾にも泉川座という人形浄瑠璃がありました。なぜ和束川に沿って浄瑠璃集団ができたのか、興味がもたれます。 

 木津川市山城町上狛にある京都府立山城郷土資料館では、現在、特別展「南山城の芸能資料と人形浄瑠璃」が開催されていて、人形首や衣装、見台、古文書など釜塚の人形浄瑠璃用具が、多数展示されています。その他、笠置町切山八幡宮の翁面(相楽東部広域連合指定文化財)や花踊図絵馬、南山城村田山の宮座文書や花踊り用具など、3町村関連の文化財が陳列されています。期間は12月11日(日)までです。ぜひ、御覧ください。


※展示お知らせ内容は2022年(令和4年)12月時のものです。

                      

人形首(かしら) 巽座人形浄瑠璃用具
山城郷土資料館写真提供

第5回 14ヶ村から4ヶ村へ

 江戸時代から明治時代へと世の中が大きく変わっていく1868年(慶応4年)閏4月に京都府が成立、和束郷は禁裏御料ではなくなり、京都府に編入されました。和束に残された古文書の宛先も京都代官ではなく京都府へと変わっていきます。しかし、突然明治時代の村に変わったわけではなく、1872年(明治5年)5月までは庄屋・年寄がいる江戸時代の仕組みのままでした。それ以降は区長・戸長などが置かれましたが、村の数は江戸時代と変わらず14ヶ村でした。

 それが大きく変わるのは1889年(明治22年)4月の市町村制施行です。これによって和束郷14ヶ村は西和束村、中和束村、東和束村、湯船村の4ヶ村となり、各村には村長が置かれました。なお、この時に和束郷であった田村新田は井手村に編入されます。

 市町村制下の4ヶ村へと変化した和束郷でしたが、それでも和束郷というまとまりが失われたわけではありません。新天皇の即位大礼に伴い行われる大嘗祭は、明治天皇の時には東京で行われましたが、大正天皇・昭和天皇の時には、京都で行われています。その際、江戸時代と同じように和束郷は材木を納めています。

 時代や制度が大きく変わっても地域的まとまりは変わらなかったのです。             

1915年(大正4年)大嘗祭のため京都御所へ材木を運ぶ和束郷行列
京都市三条烏丸で撮影(相楽東部広域連合蔵)

第4回 14ヶ村で和束郷

 江戸時代より前の和束郷にどのような村があったのかは、わからないことが多いですが、江戸時代に現在の大字となる14ヶ村があったことは間違いありません。その14ヶ村とは白栖村・石寺村・撰原村・下島村・木屋村・杣田村・南村・釜塚村・別所村・原山村・門前村・中村・園村・湯船村です。江戸時代は、現在の大字それぞれが単独の村で、村ごとに庄屋などの村役人がおり、村ごとに年貢を納めていました。なお、和束の村役人はそれぞれの村のいくつかの家が交代で務めていたようです。また、1702年(元禄15年)に開拓された現井手町の田村新田も1889年(明治22年)までは和束郷でした。

 1623年(元和9年)、和束郷14ヶ村は禁裏御料になります。禁裏御料とは天皇家の領地のことです。ただし、禁裏御料の実際の管理は幕府の役人である京都代官が行っており、和束町内に残されている江戸時代の古文書には京都代官とやり取りしているものが多くみられます。杣田山中には、「禁裏御料」と書かれた切山村との境界石が現存しています。

 村ごとではなく、和束郷14ヶ村全体で納めているものもありました。大坂城への松荘(かざり)、京都御所への高麗柿、大嘗祭への材木、これらは和束郷として納めていたことが古文書から明らかとなっています。

 14ヶ村は和束郷という1つの地域的まとまりをもって活動しており、それが現在の和束町につながっていくのです。

杣田・切山村境界石

第3回 鎌倉・室町時代の和束

 奈良興福寺の杣山(そまやま)として栄えた和束ですが、鎌倉時代中期になると、興福寺の支配に抵抗する動きが現れます。1272年(文永9年)から翌年にかけて、和束杣の「悪党(あくとう)」栄(さかえ)氏は、城館を構えて、興福寺と合戦を重ねた末、退散させられました。城館の場所は不明ですが、宇治田原や銭司の悪党ともつながりがあったようです。「悪党」とは、幕府や荘園領主に抵抗した人々のことで、領主から見て「悪」とされました。

 このころの和束は、奈良と信楽方面とを結ぶ交通の要所となっていました。撰原峠の子安地蔵(こやすじぞう)(1267年銘)や白栖の弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)(1300年銘)などの石仏は、街道の境界を守るものとして造られたとも考えられています。なお、この2体の石仏は、相楽東部広域連合の指定文化財に指定されました。

 鎌倉時代末には、幕府を倒さんとした後醍醐天皇が都落ちして東大寺に逃げ、ついで金胎寺に移り、さらに笠置寺に立て籠もるという、日本史上の大事件の舞台ともなりました。

 室町時代、1548年(天文17年)8月、大和の筒井順昭(つついじゅんしょう)の軍勢が、和束の御屋形様(おやかたさま)の城を攻め、切腹させたという記録が残っています。御屋形様の名前や城の場所は明らかになりません。筒井順昭は、筒井順慶(じゅんけい)の父です。その後、和束の喜多氏が、松永久秀(まつながひさひで)の軍勢に属し、大和郡山の筒井順慶勢と戦っています。和束でも、興福寺支配のなかから、在地の土豪が育ってきていることがわかります。

弥勒摩崖仏
(相楽東部広域連合指定文化財)

子安地蔵
(相楽東部広域連合指定文化財)

第2回 和束杣山

 前回紹介した大伴家持(おおとものやかもち)の和歌にも詠まれているように、和束は杣山(そまやま)として知られています。「杣(そま)」とは、宮殿や寺院の造営や修理のための材木を採る山のことです。

 和束や、笠置・切山から上流の木津川流域には、奈良の興福寺、東大寺、大安寺など大寺院の「杣」が広がっていました。平安時代、896年(寛平8年)の史料には、100年以上前から、大河原・有市・笠置などの人々は、川をさかのぼり、山を拓(ひら)いて、山中に居住していったと書かれています。和束にも、山を拓いて定住する人々が次第に増えていったのでしょう。 

 和束は、興福寺の杣でした。伐り出した木材は、木屋まで陸路を下ろし、筏(いかだ)に組んで木津川を下し、木津で陸揚げして、奈良まで運ばれました。

 平安時代末の源平合戦のとき、平家方から、木曽義仲追討のための兵士を出すよう要求されたことに対して、杣の工(たくみ)たちは、興福寺に、私たちが兵に出たら、誰がお寺の修理にかかわる仕事をするのですかと、訴えています。戦争に行くよりも杣仕事のほうが大事だという、杣人としての誇りが感じられます。

 湯船区には、最近まで、杣の伝統を受け継ぐ、山で立木を伐るサキヤマや、丸太を割って板に挽くコビキと呼ばれる山仕事の職人がおられました。














湯船のコビキ、故田中米次郎氏の山行き姿
(京都府立山城郷土資料館『山村のくらし』(1988年)から)

第1回 「わづか」の地名はいつから

 「わづか」の地名が、歴史の史料に初めて登場するのは、奈良時代の歌集『万葉集(まんようしゅう)』です。『万葉集』の巻3にある、大伴家持(おおとものやかもち)が、17歳で死去した安積(あさか)親王(しんのう)を悼(いた)んで詠んだ和歌に「わづか」がでてきます。744年(天平16年)2月3日に、安積親王が和束山に葬られたときに作られたものです。それは、

 「わが大君 天(あめ)知らさむと 思はねば おほにぞ見ける 和豆香(わづか)杣山」(『万葉集』巻3-476)

というものです。歌の意味は、「わが大君である安積親王が、天上をお治めになるとは思いもしなかったので、気にもとめずにみていました、わづかの杣山を。」ということです。「天知らす(天上を治める)」とは、天皇や皇族が逝去されたことを意味します。

 さて、『万葉集』本文には、「和豆香」と書かれていますが、これは、当時このように漢字で書いていたのではなく、日本語の発音を漢字の音読みにあてた、いわゆる万葉がなによる表記です。和=わ、豆=づ、香=か、ということです。この歌から、奈良時代に、この地域を「わづか」と読んでいたということが明らかになります。                    

 では、古文書では「わづか」は、漢字でどう表記されているのでしょうか。平安時代末ころからみられる「和束」のほかに、760年(天平宝字4年)の正倉院文書には「輪束(わづか)山」、鎌倉時代末の1331年(元弘元年)の古文書には「輪(わ)塚(づか)」と書かれています。「わづか」の地名にも、長い歴史がありました。              

和束運動公園にある万葉歌碑全体写真

万葉歌碑拡大写真